こんにちは。カナエです(⌒∇⌒)。
今回はにぎやかな曲「お江戸日本橋」の意味を探ってみたいと思います!
「お江戸日本橋」はなんと旅の歌だった😮?
「お江戸日本橋」の歌詞
「お江戸日本橋」は、東海道五十三次の地名を歌詞に入れて歌った日本の民謡です。東京の日本橋から始まって神奈川の小田原や静岡の沼津、そして岡崎、亀山、草津と続き、ついに京都・三条大橋までの東海道の地名がずらりと歌われています。
お江戸日本橋 (作詞作曲者不詳)
※一番
お江戸日本橋七つ立ち 初上り
行列揃えて あれわいさのさ
こちや 高輪 夜明けの提灯消すこちやえ こちやえ
※二番
恋の品川女郎衆に 袖ひかれ
のりかけお馬の鈴が森
こちや 大森細工の松茸を※三番
六郷あたりで川崎の まんねんや
鶴と亀との米まんじゆう
こちや 神奈川いそいで保土ヶ谷へ―以下京都・三条大橋までの歌詞が続く―
この曲の七つ立ちとは?
この曲は江戸時代、1830年から40年頃に流行った俗謡の「はねだ節」「こちゃえ節」を元にしているんだそうです。
<一番の歌詞の意味>
お江戸の日本橋を暁七つの時刻に出発して初めて京都への旅に出る
大人数の行列作ってあれわいさのさ←かけ声
こちら高輪まで来ると夜が明けて明るくなったので 提灯を消した
こちゃえこちゃえ←囃子(はやし)詞
当時は時刻を知らせるのに鐘を鳴らしていて、七つどきとは寅の刻の七つ(午前4時頃)で、まだ夜が明けず辺りは暗いうちに出発して提灯をともして行列は進んだ、と言うのが歌詞になっています。七つ立ちとは七つの時刻に出発した、という意味だったんですね。そして高輪までくると日が昇ったので提灯が要らなくなって消した、というのが一番の大意です。
カナエはこの歌を「お江戸日本橋七つ橋・・」と勝手に聞き間違えて覚えていて、お江戸には七つも有名な橋があったのかあ、と勝手に納得していました。そしててっきりこの歌は江戸の町をにぎやかに歌っているんだと思っていたら、なんと東海道五十三次の道中を歌った曲だったんですね!京都までずっと歌詞があったなんて驚いちゃいました(‘◇’)ゞ。
ところで二番の歌詞なんですが・・
恋の品川女郎衆に袖ひかれ・・と歌詞がかなりに色っぽい。女郎衆とはそういう商売の女性を指していて女性に足止めされた様子を歌っているようです。大森細工の松茸も意味深なもののようで、二番以降は大人の囃子歌にもなってますね。(長い歌なんで艶っぽいネタを入れて京都まで歌を伸ばしていったのかも。)
さて三番の歌詞なんですが・・
六郷あたりで川崎の まんねんや
鶴と亀との米まんじゆう
こちや 神奈川いそいで保土ヶ谷へ
そのままでわかる歌詞ですね。六郷とは多摩川(昔は六郷川)にかかる橋のあたりを指す場所で、江戸時代洪水のために何度も橋が架けなおされたところらしいです。その六郷を渡って川崎宿の万年屋というお茶屋にいく。
このお茶屋では奈良茶飯が名物だったらしい。米饅頭は川崎宿の鶴見川近辺の饅頭屋で売られていて鶴屋と亀屋が有名だったようです。
【米饅頭】
現代なら❝山手線の歌❞みたいなもの?
それにしても江戸時代徒歩で京都まで旅するなんて、どれくらいかかったんでしょうか。一般的には13~15日くらいだそうです。お江戸日本橋から京都の三条大橋までは約492kmあるそうで徒歩で一日頑張って歩いてもせいぜい30㎞強なのでそのくらいの日数になるらしいです。途中で駕籠や馬に乗れればもっと短くなったでしょうが、お金の無い庶民は大変です。まあ貧乏な人たちはそんな当時の大旅行をする余裕はなかったかもしれませんが😅。
(今では東京から京都まで新幹線のぞみなら2時間ちょっとでいけるし、リニアが開通すればその半分で行けちゃうので、江戸時代の人が知ったらさぞびっくりして口あんぐりだろうなあ。)
でもいつの時代でも旅行は人の気分を新鮮にさせてくれる娯楽だから当時の人たちも弥次さん喜多さんみたいに連れだってワイワイいいながら旅したのかもしれませんね♥。
◆弥次さん喜多さん像◆
弥次さん喜多さんとは・・
江戸時代に十返舎一九の書いた滑稽本「東海道中膝栗毛」に登場する東海道を旅する弥次郎兵衛と喜多八のこと。
「お江戸日本橋のルーツ」といえば?
この曲の原曲が生まれたのは将軍徳川家斉公の時代で、俗謡の「はねだ節」が囃子詞の入った「コチャエ節」となって、その折に東海道五十三次の替え歌が誕生してそれが「お江戸日本橋」という民謡となったんだそうです。
ちなみにこの曲は東京メトロ(地下鉄)で2015年に東西線日本橋駅、2018年に銀座線日本橋駅、また半蔵門線三越駅前駅で発車メロディに使われています。
コメント