こんにちは。カナエです✋。
BS日テレ放送のシーズン4まであったドラマ「オスマン帝国外伝」も終わってしまいました。スレイマン皇帝は戦場で死にミフリマーフはトプカプ宮殿から去っていく・・がらんとした宮殿の中には一人スンビュルが残るのみ・・多くの愛や憎悪や争いはすべて昔日の夢のごとく消えたのでした。
トルコという国の始まりと帝国の盛衰とは?
トルコという見知らぬ国
ずっと楽しませてもらったドラマでしたけどカナエはトルコという国を殆ど知りませんでした。高校の世界史で「オスマン帝国」という広大な国が中世の時代にあってヨーロッパを圧迫した、というのは習った記憶はあるんだけど、世界史ってカナエの時代は西欧中心でイギリスやフランスなんかは丁寧に授業するけど中東についてはあんまり教えてくれなかったのよね。
だから今でもなんとなくあそこら辺や南アメリカなんかぼやっとしてる。アフリカに至ってはほぼ真っ黒な感じでケープタウンくらいしか浮かばない。
そういえば今(2022年)は某大国の侵略戦争のニュースが連日報道されていますが、アジア南部や中東やアフリカでも内戦してるんですよね。気候変動をなんとかしようと世界が団結しなきゃならないときにこうやって揉めるのって地球的にマイナスにしかならない気がするのに、一つ悪くなるとどんどん悪循環が起きるみたい。これも歴史の一過程で早く無事な未来が来て欲しいと切に願います。
まあ自分の不勉強をぼやいても仕方ない。今回は「オスマン帝国外伝」の最後の記事なので、トルコという国について調べて行こうと思います。
現在のトルコは・・
トルコ共和国は黒海側はロシア連邦に近く、ヨーロッパ側ではギリシャやブルガリアと接し、中東ではシリアやイラク等に隣接する日本の約2倍の面積を持った国です。
この地域は紀元前から様々な国家が建設されてきました。古くはヒッタイト、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国、次いでビザンチン帝国、セルジュクトルコが支配。ドラマの「オスマン帝国」が建国されたのは1453年でイスラム教の中心地として栄えました。
皇帝スレイマンの時代が最盛期で19世紀になると力も衰え、第一次大戦で敗戦するとギリシャに侵略されます。しかしアタチュルクによってギリシャ軍は退却し、彼は1923年にトルコ共和国の初代大統領に就任しました。
現在は民主主義でNATO(北大西洋条約機構)に加盟、EUの準メンバーでもあり西欧よりの政治を行う国になっています。
カナエは「オスマン帝国」が19世紀まで存続していたなんてちょっと驚きでした😮。トルコって周りを多数の国に囲まれていてトラブルが絶えなそうですね。とりあえず日本は周りが海なので攻められにくいとは思いますが今はミサイルが飛んでくる時代なので安心できません。お互いに平和でいられる世界であって欲しいです。
スレイマン死後のオスマン帝国
スレイマン皇帝が遠征中に歿すると軍隊の混乱を避けるためにその死は隠されました。大宰相のソコルルがセリム皇太子に手紙で知らせ、軍に合流するよう要請、軍にセリムが到着した後で初めて父帝の死は公にされたのです。
王座に就きセリム2世になっても政治に関心を示さず、酒ばかり飲んで放蕩に明け暮れていたセリムは「酔っ払い」と野次らました。遠征にも出向かず大宰相ソコルルに国事は任せっきりで有名なレパントの海戦ではカトリック教国の連合軍に敗北を期しました。この駄目な皇帝のおかげでオスマン帝国の衰退がはじまったとも言われています。
晩年ワインを一瓶飲んだセリムは浴場で足を滑らせて頭を打って亡くなりました。その死は父親スレイマンと同じように息子ムラトがトプカプ宮殿に到着するまで妻のヌールバーヌーによって伏せられたという事です。
この残念な皇帝に終わったセリムはやはり弟のバヤジトを殺したことが終生心にかかっていてそれを忘れようと深酒を繰り返したのかもしれません。
悲劇が悲劇を生みそして誰もいなくなった・・
マヒデブランやヒュッレム妃の願いも空しく次々と暗殺された皇子たち。オスマン帝国の皇子たちには常に死の影がつきまといました。
この残酷な「兄弟殺し」の制度はいつまで続いたのでしょうか?
1603年にアメフト1世が13歳で皇帝になると、まだ少年のアメフトはさらに幼い弟のムスタファを処刑しませんでした。あまりに残酷だという周りの意見とムスタファが病弱だった言う理由もあったようです。
それを機に「兄弟殺し」は廃されたそうです。しかしその後皇帝の兄弟は宮殿内で隔離されて人とも会えない不自由な暮らしを強いられたそうです。これは鳥籠の中での暮らしの様なので鳥籠(カフェス)制度と呼ばれました。
王朝を続ける為には反乱で国を分裂させたり不安定にしてはならない。だから後継者には厳しい試練が不可欠だったんですね😢。それにしても悲しい史実です・・。
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